前々回、私たちは鑑定盤を占いの神様の示しとして、大切にしている事を書きました。
盤には、その時の相談の問題点、ポイント、どこに救いがあるか、ないか、など様々な事が端的に示されていて、そこにある見えない意思のようなものがあまりにも神聖だから、鑑定盤を占いの神様そのものの顕現として、大切に考えているのです。
これは言葉や文章ではとても説明できるものではなく、私はただ経験上そのような感覚へたどり着いた、としか言えないのです。
西行が神宮で詠んだ、
なにごとの
おはしますかは
知らねども
かたじけなさに
涙こぼるる
という感覚に近いと私は思っています。
理屈ではないのです。
その一方で、鑑定盤はシステマティックであり、自然界の法則に則っているものであり、そもそも9マスの魔法陣に数字と漢字を書いて、それがぐるぐる動いて、何でそれで人の運命が鑑定できるのかと聞かれても、よくわかりません。
適当なうんちくは言えても、本当のところは人智を越えたところにあるようです。
たまにお客さんから『見えるんですか?』と聞かれる事がありますが、私は特殊能力者でも何でもないし、お客さんが見ている数字と漢字の羅列を私も見ているだけで、そこから情報を得て話をしているだけです。
占いをしているだけです。
何だか自分で書いていても、何が何やらよくわからない話になってしまいます。
ただ、いつでも必ず神様が盤に降りるわけではなく、神あり盤と神なし盤といって、神がいなければそれこそただ紙に文字を書いただけとなります。
神ありなら盤自体をミスって書いても鑑定は問題なく、神なしなら盤が時刻に正確でも、なんの意味もなしとなります。
神なしになってしまう理由はその都度いろいろあるようですが、鑑定に対して作為がある時、鑑定にふさわしくない場所である時、などでしょうか。
実は私自身は喫茶店や飲食店で鑑定するのは苦手で(店にもよりますが)、喧騒や周りの人が興味本位で聞いていたりと、集中しずらく話したい事も話せず、雰囲気が雑然とし過ぎるのも、あまり鑑定には好ましくないようです。
とは言っても、出張の時などはやむを得ない事も多々あるのですが。
カルナティーラが出来て良かった事は、純粋に占いに集中して鑑定できる環境が整った事で、今までと比べるとむしろ静か過ぎて、まだ私自身も慣れてないくらいで、変に頭が回り過ぎてしまうようです。
自分が少し浮ついた感じになっています。
もう少し経てば、あの空間での鑑定を完全にものに出来ると思います。
そうすると、今までと少し変わる部分も出てくるかもしれません。
それはそれで、何でも良くなるぶんにはけっこう。
良い環境、雰囲気で鑑定したいという私の長年の願いが叶い、形になったのがカルナティーラです。
しかもスタッフである大切な人達と協力しあって、素敵な空間で喜んで頂ける仕事をしよう、という想いを共有できたのが本当に嬉しく、これからも大切にカルナティーラを育てていきたいと考えています。
まだカルナティーラ未体験の方は、ぜひ一度訪れてみてください。
日ごと良い雰囲気に仕上がってきてます。
それから、このブログでは小難しい事もつらつら書いていますが、実際の鑑定では常識的な言葉と内容で、わかりやすくお話しするよう心がけていますので、安心していらしてください。